タイトルに惹かれて読んだのだが、やや「看板に偽りあり」な感じかも…?
IT の視点から「心」を定義し、それであれば「心を持つ AI」が作れる/作れないという議論があって、見方を変えるとそういう定義の「心」って人間にあるのだろうか?…みたいな展開を予想したのだが…。ちょっと違った…(^^;)。
まぁ、それなりには面白かった。
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前半は著者が提唱している「受動意識仮説」、つまり「意識は受動的であって何も決めてない」という話が中心。後半は「幸福学」?
以下、読書メモ。※印は私のコメント。
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「人間に自由意志は存在しない」という「受動意識仮説」の視点から「意識と無意識」の話が色々と出てくる。
ニューラルネットワークの中で多様な専門分野に分かれた神経細胞が働いているが、それは本人には意識されず、いわば「無意識」レベルでの情報処理である。
「意識」は、その処理の流れの一番「川下」で、結果をエピソード記憶に保存するために存在している。
「意識」はニューラルネットワークを中央集権的に上からコントロールしている訳ではなく、その逆。つまり、自律分散型の処理体系になっている。
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指先の触覚受容器が受け取った刺激は電気信号として脳に送られ、そこで処理されて「痛み」や「質感(つるつる、ざらざら…)」などの「クオリア」(感覚の質)が生み出される。
ところが、人間は「指先でクオリアを感じている」と「錯覚」するように出来ている。その「感覚」は「幻想」でしかない。
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※上の説明は分からないでもない。ちなみに、意識と無意識の割合は「1:9」。
※無意識は、遺伝と学習(経験)によって、本人の意思とは無関係に作られる。だとしても、無意識もその本人のもので、「意識+無意識」が本人をかたち作っていると考えた方がいい…と思うのだが…。無意識と協働関係にある意識が持っている(と錯覚している?)「自由意志」は本人のものと言えるのでは?
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現在の AI には個性がないが、それはそのように(没個性・汎用的に)設計されているから。膨大なコストをかければ「個性を持つ AI」は作れる。
さらに「身体」を持つことにより(ロボットとして動き回ることにより)「個別の体験」を取り入れて、さらに「個性」を増幅・修正することも可能になる?
※これこそ「physical AI」なのでは?「physical AI」というと、工場で人間と同じように働くロボットに焦点が当たりすぎているような?
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ピアニストや運動選手は(学習による)「無意識」(の自動化)により、意識しなくても高度な動きができるようになる。
「運動学習」には「おおまかな部分」(自転車に乗る)と「繊細な部分」(ピアニストの高度な動き)とがあり、前者は長期間持続するが、後者は短期間で衰える。
※ピアノとかけん玉の「腕」が持続しないのは「繊細な部分」だから…なのか…?
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脳は都合のいいように時間を歪ませている。「今」という「意識するタイミング」は絶対的なものではない。錯視と同じように、時間も錯覚と無縁ではない。
1983年のベンジャミン・リベットによる実験で、被験者が手首を動かそうと意識するより前(0.35秒前)に無意識の領域で運動準備電位が発生していることが明らかになった。実際に手首が動くのはさらに 0.2秒後。
でも、本人は自分が手首を動かそうと思ったから、動作が起きたと思っている。
※リベットが測定した「準備電位」はノイズであった可能性も含めて、議論が続いている(結論が出ていない)ようだ。仮にノイズではなかったとしても、本人が「動かそうと思った」ことを認識した瞬間(手首が動く 0.2秒前)より以前に、「動かそうと思う」脳の処理が行われた可能性もあるのでは?
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AI には「意識」や「感覚」はない、「意識のクオリア」(今自分は何をしているか、何を考えているのか、どちらを選ぼうか…)もない。…が、あたかも感覚や感情があるかのように振る舞うことはできる。
※著者は「実は人間も(ある部分では)AI と同じなのでは?」と言いたそうなのだが…。
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毎日の行動が無意識の働きを強化している。
※とすれば、人間は「無意識」を意識的に(毎日の行動によって)鍛えることで成長できる?…というか日常の(あまり意識しない)行動が自分の「無意識」の中に蓄積されていき、その後の自分の行動に影響する…って、ちょっと怖い気がしないでもない。
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「無意識に委ねる」ことでプレッシャーや悩みから解き放たれる?「自分の意思で、努力で、力で成功した」などと言うのは「傲慢」かも知れない。生まれなど自分で選べない要素も多い。
※少なくとも何者か(something great とか)に「委ねる」という方法論はあるだろうし、それが正解のことも多いかも知れない。ただ、「無意識に委ねる」というより「無意識の声に耳を傾ける」とか「無意識に感じるような勘とか feeling のようなものを信じる」とか「無意識を大事にする(育てることも含めて)」みたいな言い方の方がよさそうな気がする。
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著者の言う「幸福学」では「やってみよう」「ありがとう」「なんとかなる」「ありのままに」という四つの「因子」が重要なのだそうだ。
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「受動意識仮説」は仏教の「無我」や「自分と宇宙の一体感」、茶道や武道などの「己を捨てる」などの考え方、マインドフルネスなどと共通するものがある。
昔の人々に「自由意志」という考え方を持つ人は少なかったと思われるし、現代でも「自由意志はない」と考える文化は存在している。「自由意志がある」とか「自己責任」などは、近代西洋文明の個人主義によって生み出された側面が大きい。
※これはそうかも知れない。現代(西洋文明)が過剰に「個人」を重視しすぎている、「個人の力や責任」を過大評価している…という面は確かにありそうだ。東洋の知恵、仏教の考え方など、もっと見直されるべきなのかも…。
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